アンガーマネジメントの考え方を批判する

― 気づき: 非力動的動機理論の観点から ― 

田嶋清一(田嶋心理教育相談室)日本理論心理学会64回大会事務局提出原稿(2020,6,16 改定版)   

 

1,アンガーマネジメントの考え方とは、安藤によれば、「目の前に敵がいるとき、…怒りの感情が生まれ、…相手を襲うか逃げるかができるようになるのです。…だから怒りという感情がないと、わが身を守れなくなってしまいます」(安藤,2016,p.31)。また「怒りは感情ですから、そう感じるのを止めることはできません。我慢して怒らないでいるとフラストレーションが溜まっていき、いつか取り返しのつかない大きな怒りとなって爆発してしまう」(安藤,2011,p.25)。これは怒りを行動の原動力とする、怒りに関する力動的な考え方です。

安藤と同様に、湯川の考え方も、怒りに関する力動的な考え方です。「怒りというのは『故意に不当な扱いを受けたときに生じる感情』」(湯川,2008,p.4)であり、怒りとは「侵害に対する、防衛のために警告として喚起される心身の準備状態」(湯川,2008,p.7)です。

このような湯川の考え方は、やくざの縄張り争いのような状況をイメージして、相手を威嚇し、攻撃し、報復するための、心身の準備状態として、怒りを考えるのであれば、確かに分かりやすいのです。

しかし、私たちは日常、決して相手を暴力で威嚇しようとは考えていません。アサーション(自己表現)の考え方に立つならば、相手を威嚇し報復しようとする攻撃的な自己表現でもなく、いじけた非主張的な自己表現の中でアパシー(無感情)になるのでもなく、何とか粘り強く相手と自分を共に生かそうとするアサーティブな自己表現を心がけています。そういう私たちが、誰かに、何かに、「怒っている」ということは、何をしていることなのか。このことを考えて行くと、安藤や湯川の考え方は、「大事なポイント」が抜け落ちているが故に、私たちにとっては役に立たない、と考えられます。

抜け落ちている「大事なポイント」は二つあります。

第一のポイントは、私たちが怒りを感じているとき、怒りの中には、私たちが、そうあるべきと考える想定を超える事実と出会った、という「驚き」(新鮮な発見)が含まれていること、これが第一のポイントです。どんなに不当でも、想定内であれば、わざわざ「怒り」を感じる必要などなく、相手との間に、いつも通りの、粘り強い、ある種の外交交渉が必要なだけですから。

第二のポイントは、第一のポイントを掘り下げることで見えてきますが、驚きが何を提供しているかということです。たとえそれが不当や裏切りなど、受け容れがたく、都合が悪い事実であろうとも、それに出会うことによって、私たちが、まだ気づいていない(都合が悪い事実の)その意味に気づく貴重な機会を、その驚きが提供しているということです(例えばダイナ・ショアの事例「偏見への気づき」参照〔田嶋、2007、pp.93‐95〕

ところが、安藤や湯川の考え方からは、それらの認識が抜け落ちています。それゆえ、アパシーや突発的な怒りが蔓延する現代において、「アパシーや突発的な怒りを乗り越えるために、怒りをどう位置づけたらいいのか」を考えようとする私たちに、役に立たないのです。 

 この大事なポイントを掘り下げるために、古代ローマのストア派の哲学者セネカ(41)を、次で取り上げます。

 2,セネカ(41)によれば、怒りは二段階の構造を持っています。第一の段階は、そうあるべきという想定を超える事態と出会った、という思いによって起こる心の動揺です。第二の段階は、その思いを受け取り、それを是認したのちに続いて起こる、復讐と攻撃に突き進んで行く心の激動です。ゆえに、セネカ(41)によれば、怒りは教え諭すことによって退けられる心の悪徳です。怒りは、そうあるべきでない、不当な扱いを受けた、という認識によって引き起こされますが、怒ることへの、理知の同意がなければ生じませんから、怒るか怒らないかは自分次第です。つまり、不当な扱いを受けたという認識と、そこから自分を怒りへ明け渡してしまうことの間には距離があり、その距離の中にこそ意志の働く余地があるからです。私たちは自動的に怒りの第二段階に移行するのでなく、自分で選んで第二段階に移行しているのです。よって、それからの回復も自身の努力によって可能です。ただし、この努力とは、非力動的努力概念としての努力(認識としての努力:気づく、見通す、工夫する、受容する)です。従来は、とかく血と汗と涙、力んだ努力に陥りやすく、体罰に結び付いたりもします。努力とは、本来、事柄の全体に沿って意味を認識し、自身の在り方を選び直すことです。桑田真澄という元巨人の投手が、ある少年野球チームのコーチをしている時に「がむしゃらに努力するんじゃなくて気づくんだよ。気づけ~」と少年らに気づきの必要を説く様子がテレビ放映されました。気づきが私たちを変革する努力の具体例なのです。 

3,筆者の見解によれば、怒りの第一段階は、フラストレーションと等価です。フラストレーションとは、思いがけない事実に出会って、自身の見通しが損なわれた状態、意外感です(田嶋,2007,2013)。従来の心理学辞典のフラストレーションの定義で言われる「欲求充足行動が途中で妨害あるいは阻止された状態」ではありません。なぜなら、妨害や阻止が想定内であれば(つまり見通しに組み込まれさえすれば)何ら問題とならないからです。とすれば、怒りの第一段階(想定を超えるような事態と出会って起こる心の動揺)は、フラストレーション(思いがけない事実に出会って、自身の見通しが損なわれた状態、意外感)と等価であり、今の自分のあり方の向こう側への道があることを指し示すものと言えます。

さて怒りの第二段階では何が起こり、そこからどう回復し得るのか、サルトル(1939)の考え方を紹介します。

4,サルトル(1939)によれば、怒りによる魔術的変形作用(transformation)とは、不本意な事態から逃避するため、興奮して安直に誰かを悪者にすることです。私たちは不本意なときアラジンが魔法のランプをこすり大男を呼び出したように怒りを呼び出し、怒りを後ろ盾にして「あいつが悪い!」と決め付けます。本来なら事態の複雑さに沿って行うべき、きめ細かな対応(相手の言い分を聞くとか、不本意さの複雑な背景を研究するとか)を怠って、都合のよいセルフ・イメージ「間違っていない私」へ逃避し、自身を正当化できる、という都合のよさのゆえに、私たちは怒りを選びやすいのです。この魔術性を自覚すれば、私たちは次のような浄化的反省(ある種の気づき)に到達できます:すなわち「私が彼を憎らしく思うのは、私が怒っているからだ」と。言い換えれば、私が彼を憎らしく思うのは、腹を立てるというお呪(まじな)いによって、被害者の立場を選び、都合よく彼を悪者に仕立て上げているからだ、と。私たちは、この気づきによって、自身のあり方を選び直し、「怒りっぽさ」から回復することができます。 

しかし、被害者の立場は、都合よく自身を正当化し、事実を見ないで済む、格好の隠れ家となるので、「怒りっぽさ」が慢性化することに繋がりやすいのです。

5,「怒りっぽさ」が慢性化することについて、ジェンドリン(1996)は次のように考えています。

カタルシス(つまり情動の放出)として、ある人が強く激しく怒ったりすれば、その後、その人はおそらく前より気分がよくなるだろう。たしかに、カタルシスでは、人は自分の「気持ちにふれ」ているし、それを「からだ」を通して感じているけれども、個人の成長には結びつきにくい。クライエントが放出をまた繰り返す場合には、止めに入るべきです。「何かそれ以上のもの」が必要だからです。「何かそれ以上のもの」とは、フォーカシングのステップとしての新しい「体験的一歩」です。体験的一歩をもたらすのは、過去についての「現在」の気持ちです。単に蹴ったり殴ったりするのではなく、それよりもゆっくりとした何か、自分の内側から「かすかに湧き出す泉」が違う結果をもたらすのです。

 このように、ジェンドリンは、フォーカシングの考え方に基づいて、私たちの「怒りっぽさ」が慢性化しやすいことを指摘し、それを慢性化させないために、私たちの内側に、いま存在する、ゆっくりとした、かすかな何か(フェルトセンス、怒りについての、ある種の気づき)に、私たちが向き合うように、と促しています。

6,安藤や湯川とは違う切り口で、怒りについて見てきました。近年、事件やトラブルの陰で突発する怒りに、被害者的な「怒りっぽさ、怒りの第二段階」に滑り落ちる事例が多く見られます。しかし「怒りの第一段階」すなわち「認識としての怒り」に踏みとどまることによって、私たちがいま、どのように、都合が悪い事実とその意味に気づく貴重な機会に、遭遇しているのか、を見て行くことができるならば、しばしば「義憤」(認識としての怒り)を感じ、その怒りの内実を精査しつつ現実に向き合おうとしている私たちにとって、怒りはさらに大切な手がかりとなるでしょう。怒りの二つの段階を明確に分離して、「怒りの第一段階」のアンテナをもっと高くかかげることによって、現代に蔓延する、突発する怒りやアパシーを超えることができるに違いないのです。

 

引用文献

安藤俊介(2011)怒る技術 PHP

安藤俊介(2016)はじめての「アンガーマネジメント」実践ブック ディスカヴァー21

Gendlin,E.T.(1996)Focusing-Oriented Psychotherapy.

 New York: Guilford Press. 村瀬孝雄(監訳)(1998)フォーカシング指向心理療法 上・下 金剛出版 

Sartre,J.P. (1939). Esquisse d'une Theorie des Emotions. Paris: Hermann.竹内芳郎(訳)(2000)自我の超越 情動論粗描 人文書院.  

Seneca, L.A. (41). De Ira. 茂手木元蔵(訳)(1980) 怒りについて 岩波書店.

田嶋清一 (2007)自分と向き合う心理学 意志心理学入門 ディスカヴァー21

田嶋清一 (2013)フラストレーション現象の再吟味によって動機に関する「非力動的な考え方」とは何かを明確にする 理論心理学研究,2012・2013 , 1-14.

湯川進太郎(2008) 怒りの心理学 有斐閣